こんにちは、西山葵耀古です。
生まれる前からピアノの音を聴き、自分でも弾くようになってこれまでの年月、音楽とこうして関わってこれたのは何故か?問い直したとき、もちろん生活リズムに組み込まれたピアノの時間があったこともありますが、やはり音楽から生きるエネルギーの大半を得ているからなのだ、と思い至りました。 人間として衣・食・住が充足されれば生きてゆけるかというとそうでもなく、その人なりのスピリットが求めてやまぬ何ものかが満たされていなければ死んでしまうのだと。 そして私にとってはそれが音楽であり、詩であり、文学であったと・・ 音楽は魂を癒すというけれど、本来まさに魂のためのものであると、舞いや演劇を奉納するというのは、もちろんそこには大自然への畏怖や肉体を存続させるための日々の糧を願う豊作、雨乞いの祈りもあったでしょうけれど、それよりももっと根元的な魂の充足を願うために音楽は生まれ、奏でられてきた・・・ 祈りが形を変えたものではないか、と演奏を聞いていただく度にそう感じます。 演奏家が発信するものとされがちな「音楽」はそういう個人からの一方的なものでなく、むしろお客様の音楽への期待というエネルギーを感受した演奏家に個人の力をはるかに超えた音楽を奏でさせ聴く人に倍加して戻ってくる、「対流」を起こす性質のものであると思うのです。 むろん美しい楽器の音そのものが快感を生じさせることもありますが、奥深いところで何かが変容した、と自覚させられるときの音楽は、必ず作曲家や演奏家、演出家、観客のどこかで、何らかへの真実を希求する姿への感動を伴います。 そしてその感動は間違いなく他へ波及する、瞬時に。 「感動」は生きながら生まれ変わる唯一の方法だといわれますが、そうであるとすれば「癒される」というのは傷ついた状態から「もとに戻る」のではなくて、「新たな生を踏み出す」という事と同義なのではないでしょうか? 肉体は地球の自転、公転とともに古びてゆく、という通念にとらわれすぎているため、時を経て新しくなれる、というアイデアは浮かびにくいでしょう。 けれど、「魂は肉体に依拠するものではない」という今の私の考えからすれば、「日々新たな魂あっての肉体である」という自覚をもってすれば心身ともに時間の経過からは自由でいられるということになるでしょう。 私がライフワークにしたいと手がけている洋琴源氏物語絵巻。 徳川美術館の絵巻を見に名古屋に行ったとき、その画面に感動が累積しているのを見て目がくらみそうになりました。 絵師は物語のその場面に打たれ、ともし火の下で絵巻を広げる人々はその画面の見事さに打たれ、読み上げられる物語に思いを馳せ、むせび泣き、涙を押さえる。 そして物語そのものの誕生には作者に書かせずにいられなかったほどの感興を催させる何かがきっとあったはずです。 感動の連鎖、そこに私は強く惹かれます フランスより帰国後、98年まで旧姓、田仲恭子で活動。
奏楽堂、東京文化会館等においてソロ活動を始めるも、クラシックのコンサートに「テーマ性」「新しさ」を持たせる必要性を痛感し、また日本の誇るべき芸術はその文学性にあると感じたことから、語りとピアノ音楽からなる公演を企画、上演。 シルクロードの伝説を元に書き下ろした第一作に始まり、源氏物語に材を求めた「洋琴 源氏物語絵巻」は今までに『桐壺』『空蝉』『夕顔』の三作あり、『夕顔』はアリオン音楽財団主催「第20回東京の夏音楽祭」に参加、日本大学カザルスホールにて公演、大きな反響を得た。 源氏シリーズは行きつ戻りつしながらも継続して公演予定。 『桐壺』2004年CTN(シティテレビ中野)によりTV放映される。
2005年6月日本財団主催コンサートで公演 『空蝉は』2005年、寺島玲子氏脚本、綱崎圭子氏照明アートにより新たなバージョンで公演。 武蔵野音楽大学器楽学科卒業演奏会出演。
パリエコールノルマル作曲家ディプロム、室内楽ディプロム取得。 パリUFAM国際音楽コンクール第一位。 近畿ツーリスト主催の八ヶ岳音楽堂、ロックハート城のクリスマスソロコンサート、各地の学校音楽鑑賞会でも好評を得る。
CD「あけぬれば」は日本の美しい夜明けをイメージした作品で、アクア環境システムのビデオ音楽にも使われている。 CD「夜、想うこと」は自身が妊娠9ヶ月の時、録音したこともあり、赤ちゃんや妊娠中の方や、ほっとくつろぎたい方など幅広くご支持を得る。
教えていただいた先生の一言一言は折に触れて思い返します。
一回では出来ない不器用な人間なので繰り返し言われていたのでしょう、いまさらながらに感謝。 手ほどきは両親でバイエルを2、3回繰り返し、ピアノを 青山三郎、岡本恵子、ミシェル・ベグネール、指揮法を 甲斐正雄、室内楽を シャンタル・ド・ビュッシー、作曲を ミシェル・メルレの各氏に師事。
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